Thinkmap
全体像をつかむとは
工学と医学を例に
本稿は「ゲノム医学入門」(日本評論社) の最終章として出版されたものの再録です
目次
l 最先端分野同士は
Babelの塔
l
改めて問われる「全体とは何か」
l
全体像を求めて 化学Process工学の例
l
全体像はどのようにできるか 収集Net
l
すべて考えさせる授業 分子生物学の例
l
全体像に必要な 「遠景 近景 拡大図」
l
生命の基本原理
最先端分野同士は
Babelの塔
最近の科学の最先端分野とそれに従事する人を見て、Babel の塔の話を思い出さない人は
少ないと思います。専門家の話は一般の人には全くわからないだけではなく、専門家の間
でも少しでも専門が違うと互いに相手の言うことはよくわかりません。それは、肝心な言
葉がすべて英語の術語と略語で、それを全部理解するにはその分野で研究した経験が必要
だからです。そのため相当勉強家の研究者でも、自分の専門以外の論文を読んだだけで理
解することは不可能になっています。また自分の専門分野で仕事をし業績を上げるには、
それは必ずしも必要ないという事情が抽車を掛けて、他の分野の論文を読もうとする人は
ほとんどいません。ただ研究の管理者だけは専門家の話がわかる程度のことは必要ですが、
これらの人たちは例外なく、耳学間と勘だけで生き抜いています。
以上は最先端分野の研究の話です。その実状はまさに Babel の塔なのですが Babel
の塔と違うのは、そのために事態が混乱し、研究全体が Stopすることがないことです・
研究者はまわりの音が聞こえないから与えられた仕事に打ち込み、管理者は耳学間と人間
関係だけで研究費の配分をすることで研究全体が目ざましく進展しているとされるのが、日本の研究の現状です。誰がそう認定しているのか。複雑な人間関係の Hierarchy (ヒエラルキー)で研究費配分を支配している日本の研究管理者たちと文部科学省の役人です。なぜ、目ざましい進展と評価できるのか。論文の数です。論文の数はアメリカについで2位だそうですが、それは投入している予算や人員が2位なので順当なところでしょう。惜しむらくは、「御苦労さま」級の論文が多く、科学の歴史に残るようなOriginal (源流的 独創的) な仕事がないことですが、当然の帰結かも知れません。
このような形で研究を組織する研究管理者や、こうして要素に細分化された研究課題を機械的に追究するだけの研究者の態度を、科学論では「要素還元主義」と呼びますが、本書を手にされる読者の方々は、このような態度には批判をもっておられると思います。「科学とは、切れ目なくつながった一体のものではないか」「自分の目で全体が見えなくて、果たしてOriginalな研究が可能なのか」といった批判です。
全体を見ない要素還元主義にさらに批判が強いのは、科学を用いて人間と社会の実際の問題を解決しようとする人々です。臨床医がそうです。病気の場合、要素に分解したら因果関係は単純でも、実際の病気ではそれらがからまり合って全体が関係しているので、治療のためにはからだ全体の、病気全体の知識が必要だからです。つまりBabelの塔の中で大変に苦労しているのは、学者や研究者よりも病人を扱う医者や物を作る職人なのです。
このような情勢を見て「機を見るに敏感」な研究管理者や官僚も動いています。全体をつかむ「総合」への努力です。でも、これらの人にとって全体とは要素の総和でしかありませんから、分厚い総合報告とは要素分野の報告を集めてホチキスでとめただけのものです。しかし、これくらい役立たない文書はありません。各分野のまとめとしては短く抽象的で不明確であり、門外漢がそこから具体的 Imaageを思い描ける代物ではありません。こういうものをいくつも読んで全体がImageできるなら、もともと Babelの塔の問題は存在せず、あらためて「総合」する必要もなかったはずです。
改めて問われる「全体とは何か」
このような「ホチキス総合」が果たした唯一の役割は、「全体とは何か」ということを改めて考えさせたことかもしれません。「全体」という言葉が出るとすぐ引き合いに出されるのが、「全体論」(Wholism)という主張です。これは、たとえば「生命」を例にして、「要素をいくら精密に研究して集めても、それだけでは生命は生まれない。生命という全体には、それを越える何かがある。要素還元主義は間違いだ」という主張です。しかし、ではどう研究したら良いかという問いには答えられないので、科学者の問には全く影響カはありませんが、全体が問題とされる時には必ず現われる原理的な主張です。
しかし、ここで注意したいのは、私たちが今問題にしている全体と、全体論でいう全体とは意味が違うということです。全体論の全体は、全体論者があると信じる何か実体としての全体ですが、私たちが問題にしているのは、部分的に認識されたものから作られる全体像という意味での全体だからです。ここでいう部分の認識と全体像の関係は、視覚認識の場合は単純であり明確です。例えば風景は望遠鏡を使えばいくらでも細かい要素を見ることができますが、望遠鏡を使わず裸眼で見れば、望遠鏡からは想像できなかった全体像が見えます。逆に全体像から始めた人が望遠鏡を手にすると、予想もしなかったことがつぎつぎに見えてびっくりします。しかしよく調べると、二つは自然につながっており一つのものなのです。
全体像といった場合、私たちはこのようなものを頭に描きます。しかしよく考えると、全体像が自然な形で初めに見え、しかもその後の詳しい認識と矛盾せず一つのものであるというのは、視覚認識に特有なものであることに気づきます。これは特別な認識行為をしなくても、対象の側から反射光線という形で勝手に情報が送られて来るので、努力せずに全体像が得られるからです。その意味で視覚全体像は常識ですが、常識がその後の詳しい認識結果と矛盾はしません。ところが他の科学的認識ではこれはまれです。たとえば、天動説から地動説への転回のように、科学的研究によって最初の常識がひっくり返ってしまう場合が普通です。科学的認識は視覚認識と違い、常識を全体像と見なすことはできないのです。要素的認識と矛盾することなくしかも全体像であるような科学的認識の全体像が求められているのです。そういうものが果たして可能かどうかはわかりません。ましてそれを作る方法となると、取り上げるに足る提案は聞いたことがありませんし、それにもと
づいた全体像の試みは見たことがありません。それをよいことに、「ホチキス総合」のような意味のないことが横行するのでしょう。でもバベルの塔の深刻な現状を認識すると、誰か一人でも真剣に頭とからだを便ってこのような試みに挑戦すべきではないだろうか、誰かがドン・キホーテ役をやるべきではと私は思いつづけてきました。
全体像を求めて 化学Process工学の例
全体像への私の願望は、小学四年の時、東京上野の国立博物館で開かれた「レオナルド展覧会」で万能の天才 Leonard da Vinci (レオナルド ダビンチ)の仕事ぶりに魅了された時に始まりました。自然の「振る舞い」全体がわかるようになりたいと思い、全体像が見えやすい物理学をえらび、大学卒業まで物理学を徹底的に勉強しました。しかし仕事としては全体像が見えた物理をえらぶつもりはなく、混沌に見える化学、それもさらに雑然と見える化学工業の Production Process (製造プロセス) をえらび、そこの中に全体像を見つける仕事を自分に課しました。もう少し正確に言うと、化学原料や化学製品を作るために世界各地で実施されている何百何千とある化学 Processを最適に設計するために、見通しのよい統一理論を作ることです。それを基礎に最適設計をする汎用の Computer Program
を作るためです。
これは私にとって大変な課題でした。私は暗記物の化学が嫌いで、それまでほとんど勉強したことがなく、例えば化学者ならば数万の化合物を知っているのに、私は百ぐらいしか知らなかったからです。でもそれは、教科書や便覧を見ればすぐわかることです。大変なのは、それを作るための Systemである化学 Processが典型的なものだけでも何百もあり、それらは化学の教科書には載っていないし、化学工業の便覧を見ても、機密保持のため概略だけで、肝心の点は書いていないことです。
したがって私の勉強は、化学の本を手当たり次第読んで、重要な化学製品について何を原料にどんな反応で作るのかを覚え込むことから始まりました。つぎに化学産業の Production Processの現場で働いている友人数人と研究会を作って、商業機密の漏洩にならない範囲で Production Processの実際について話を聞き、それを覚え込むことにつとめました。
頭に覚え込むということは、全体像を作っていく上で非常に大事でした。一つは、全体像は頭にはっきり残っているものだけで構成されるということです。もう一つは、全体像はたえず自分で増築して作っていくものですが、新たにつけ加えるべき重要な材料はいつどの文献の中に見つかるのか、誰との話の中で出てくるのかわからないのに、自分の頭の中になければ、その瞬間に反応してそれを捉えることはできないからです。
私はこの仕事をやり始めてから 6, 7年後に化学工業 Processを最適設計する理論体系「化学プロセスエ学」を完成し、世に問うことができましたが、この理論体系ができ上がる過程と全体像が見えるようになる過程は全く一緒だったように思います。
全体像はどのようにできるか 収集Net
私のこの経験から、全体像ができてくる過程をまとめてみますと、全体像は、Card (カード)を机の上に並べるように、すべての知識を頭の中に並べてから、それを整理してできるものではなくて、知識を頭につめ込む過程と全体像を作る過程は、並行して進むということです。そのためには、全体像は結果であると同時に、知識を選択的に収集する道具の役割も果たさねばなりません。それはちょうど、漁師が魚を採集する時に使う魚網のように、知識を採集する「収集 Net 」の役割です。収集 Netの構造は、そこに情報が入れば全体像になるように設計されていなければなりません。
これは私が考えた方法ではなく、化学を科学にした Mendeleyev (メンデレーエフ) の方法です。「周期律表」が目ざす情報知識を選択捕獲する「収集Net」です。しかもそれは、目ざすものが捕獲されたときに元素と化合物の全体像が見えるようになっているのです。つまり Mendeleyevは、まず知識ありきでそれを整理したのではなく、むしろまず周期律表ありで、それにあてはまる知識を収集していったのです。だから、あてはまる知識がないところは知識が未発見なのだと堂々ということができたのです。
もう一つ Mendeleyevの周期律表の肝心なところは、「収集Net」の構造が単なる思い付きではないということです。化合物の構造の類似から元素の分類整理をすれば周期律表の原型は他の化学者も作っていたと思いますが、分類表を作る原理が「元素の質量順」であることに気づいたのは決定的な発見だったと思います。逆にこのような発見がなければ、Originalな新しい全体像は見えて来ません。
したがってMendeleyev流の全体像形成の特徴は、
① 構造を作って知識を集める、
② その構造は, 単なる思い付きでなく, 対象の奥にある原理の発見にもとづいている、
③ 知識の収集と全体像形成は並行して進むことです。
全くの門外漢だった私が、6年で化学工業 Processの全体像を自信をもって世に問うことができたのも、同じ道を歩んだからです。このうちでも対象の奥にある原理に気づくことが決定的です。私の場合それは、複雑な非線形現象に見える化学反応や分離操作が、見方を変えるとP行列という線形変換操作で表わされることに気づいたことでした。これに気づいたのは全期間の後半ですが、実質的な仕事の九割はそのあとに行なわれました。
全体像を形成する上での奥にある原理の発見を指摘しましたが、このことの深い意味はつぎの点にあると思います。
全体像を作るとは、新たに自分の手で宇宙を作ることである。宇宙とは、自分の問題意識に密接に関係するものすべてを含み、関係ないものは一切含まない全体のことである。宇宙とはそういうものであるから、構成原理なしに全体はありえない。
すべて考えさせる授業 分子生物学の例
新しい全体像の形成にはこのような発見が必要ですが、発見がいつも必要なわけではありません。一度、基本的な全体像ができ上がると、あとはその見方をどんどん新しい対象に適用して発展させることができます。物理学の歴史はまさにそういう歴史でした。Newtonが作った物理学の精神は今もほとんど変わらず、物理学の最先端に残っているのです。物理学以外の分野でも、「物理学にならって」全体像を作る試みが成功しました。「医学における生理学」、「生物学における生態学」がそのよい例です。
私は「化学プロセスエ学」で工場内の最適設計に成功したあと、工場外のひどい環境汚染に気付き、環境汚染の問題、 特に瀬戸内海の汚染問題に取り組みました。この時、海の生態学を使いこなす必要がありましたが、物理学をやっている者には生態学は非常になじみやすく参考になるものでした。共感したのは、Benthos (底生生物)など生活場所による分類、Plankton (浮遊生物) など移動機能による分類、生産者、消費者など光合成機能による分類を行い、それぞれを定量化する態度です。さらに感心したのは、分類されたものを統合する原理として、「食物連鎖」など捕食関係に注目する態度でした。
このようにまったく新分野の研究としてはじめた公害の研究ですが、産業界と政府が私の研究結果を嫌い、大学がそれに追随したため、私は、公害の研究を一切禁止されてしまいました。停年まで10年しか残っていない1983年、50歳の時、突如始めたのが免疫工学の研究です。工学部の教授で正式に遺伝子工学に転向した最初の例となりました。でも私は、それまで高校でも大学でも一度も生物を学んだことはありませんでしたから、ドン・キホーテ的な挑戦です。 Lehningerの Biochemistry、WatsonのMolecular Biology of Geneを1頁からていねいに勉強を始めましたが、どちらも理論的な事柄が秩序正しく論述されているので、物理屋である私の頭には難なく入っていったと思います。分子生物学関係の論文を読むことでは、正統的生物学者と較べて特にHandicapを感じることはありませんでした。自分の頭の中に全体像を作る経験が数多くあったので、分子生物学についてもまず全体像が頭の中に見え、それに従って組織的に知識を収集し構築し、記憶していったので、効率よい学習ができたのだと思います。
研究は、ある程度の知識を積み、技能を習得し、機器がそろえば、あとは研究能力の問題ですから、Start 後3年ぐらいすると特別なHandicapはなくなりました。むしろ緊張したのは講義です。私は細胞工学を担当しましたが、生物の基礎教養のない工学部学生に同じく基礎教養のない教師が教えて、果たして東大の講義の面目が保てるのかという他学部の声さえ伝わってきました。この声には、私は他の誰もがやっていない Original な講義をすることで応えることにしました。それは、分子生物学を、覚える科目ではなく考えて作り出す科目に変えることでした。分子生物学を、物理学の延長の学問に作り変えることです。
具体的には、分子生物学の重要な成果を教えないで考えさせるやり方です。たとえば抗体の多様性は、抗体遺伝子のVDJ領域の再編成によることを実験的に証明した利根川進の有名な実験がありますが、どのような実験でその仮説を実証したかを教えないで、一週間かけて考えさせるのです。ただし利根川が当時利用できた文献知識と利用できた実験手段に関する情報はすべて与えてです。これには学生は興奮します。 Nobel賞の仕事の内容を、習うのではなく自分で考え出すのだからです。1学期12回の講義をすべてこのような課題学習としましたが、学生の盛り上がりはすごいものでした。これはそのまま大学での研究につながっていき、研究者になった20年後の彼らの研究態度の中にも消えない刻印を残しています。それは、たえず自分の頭で考えて全体像を作るという態度です。
停年後、考える生物学の面白さと全体像の大事さを一般の人に知ってもらうために『見えてきたガンの正体』(ちくま新書) を書いたところ、臨床医や医療補助者の方々から大変好評でした。
類書がないからだと思います。ガンばかりでなく主要な病気すべてについて、全体像を描いてみたのが「ゲノム医学入門」です。
全体像に必要な 「遠景 近景 拡大図」
ゲノム医学の全体像を作り上げる過程で気づいたことはつぎのような点です。まずゲノム医学は「分子生物学」を基礎にしていますが、「ゲノム医学」と「分子生物学」では、その全体像が全くことなることです。目的がことなるからです。分子生物学が遺伝子LevelのMechanismの解明を目的にした「科学」であるのに対し、ゲノム医学は「病気の診断と治療」を目的にした 応用科学 =「工学」 だからです。したがってゲノム医学の全体像を作るにあたって手本にしたのは、情報技術の基礎になっている半導体工学でした。基礎は純粋に半導体内の電子の動きを解明する科学でありながら、目的は記憶、判断など人問的なものをどう実現するかという点で二つは似ているからです。
ゲノム医学の全体像を築くにあたり心がけた第一の点は、遺伝子から症状に及ぶその全体像を、ちょうど視覚認識像がそうであるように、全景から拡大図までが矛盾することなく自然につながった一つのものになるように構成することでした。このために気づいて有効に活用したのが
「遠景、近景、拡大図」
という Perspective (絵画の遠近法) の方法です。この見方については、Thinkmap の他の項目、肥満とは
や 糖尿病とは
で解説してありますが、短くまとめると次のようです。
l 近景は「肉眼で見ている世界」です。常識の世界と言ってよいでしょう。
l 拡大図は常識を超えて事物の微細構造を調べることです。そのために拡大鏡、顕微鏡を用いて拡大図を作って行きます。99 % の科学研究は、分析的手法を駆使して、微細構造を見るのが目的と言って良いでしょう。その結果、想像しなかった世界が見えてきて、常識をひっくり返す力があります。残り1 % の科学研究は遠景のためです。
l 遠景は常識を超えて関係する世界の全体を見せるものです。したがってそれは、近景を何枚か集めて、遠くから見たものではありません。それでは近景の範囲が広がっただけで、全体である保障がないからです。その保障をするには、たとえば熱エネルギーだけに関心を絞り、その保存法則を導入し、保存法則が成り立つようにSystemの範囲をひろげて行くことが必要です。物理化学的なSystem ならば、熱と物質の流れに注目し、エネルギー保存則と質量保存則を使えば、全体を捉えることができます。
生命の基本原理
生命 Systemの場合は、遠景は、生命が基本的にはどのような性格を持っているかという生命観と生命の研究を進める問題意識からなっています。この生命観が、全体像を形作っている基本原理といえるでしょう。それは一定不変なものではなく、研究の発展につれて変化し、豊富になっていくはずのものです。したがって、今回も拡大図の世界でいろいろ新しい発見をしたのですから、この成果が私たちの生命観につけ加えるものがあるのか、変更をせまるものなのかを検討する必要があります。
生命のMechanism (メカニズム) は精密、複雑、多様ですが、遠景から眺めると三つの基本原理が見えてきます。
l 「情報処理」 と
l Homeostasis ( ホメオスタシス = 定常化機能) と
l Apoptosis (アポトーシス = 自殺機能) です。
「情報処理」は情報の記憶と伝達、制御ですが、これは細胞内と細胞間で違います。細胞内で情報処理を一手に引き受けているのは遺伝子そのものです。これに対し細胞間情報処理を一手に担っているのは、信号伝達分子とその Receptor (受容体) です。多細胞生物である人間の生命では、細胞問信号伝達が決定的に重要な意味を持ちます。人間の病気はほとんどすべて細胞問信号伝達の異常によることは、既に示した通りです。またこの異常の原因が、信号伝達分子あるいはそのReceptorの遺伝子の異常によることは、糖尿病、ガン、アルツハイマー病について示した通りです。Schizophrenia (統合機能失調症)については
遺伝子こそ特定されていませんが、遺伝子の異常に間違いないことは示した通りです。
生命体のもう一つの原理は Homeostasisです。 Homeostasis とは体内の状態を一定に保とうとする生命体の無意識の働きです。血液中のいろいろな物質の濃度を一定に保とうとする Feedback (フィードバック) 制御機能があることは分子生物学以前からよく知られていました。これを古典的 Homeostasis といえば、分子生物学の研究は広義の Homeostasisの存在を教えてくれたことになります。たびたび Stress (ストレス)を受けると、前頭葉回路 (理性回路) が側座核回路 (動物本能回路 )の過度の反応を抑えるように働くことで 精神錯乱に陥るのをさけるというのも、広義の Homeostasisの例です。
もう一つ、分子生物学の発展以前には夢想もされなかった生命原理があります。Apoptosisです。全体を守るために、指令を受けて個が自殺するという原理です。細胞レベルでガン化した細胞は、Apoptosisを起こして消減するように細胞の仕組みは作られているのに、この仕組みに異常が起こって Apoptosisを起こさなくなり、その結果異常増殖に歯止めがかからなくなったのが、個体Levelで病気として認識されるガンであることは、説明した通りです。
Apoptosis は「個は全体のためにあるのか、全体が個のためにあるのか」という問題をいや応なく思い起こさせます。ヒトを含め多細胞生物では、個体を構成する個々の細胞はあくまで個体という全体の生存のための存在です。どんな役割もできる細胞が、指示を受ければいかなる細胞にも専門特化しますし、自殺を指示されれば Apoptosisします。つまりヒトという個体の中では、それを構成する個々の細胞には、個としての尊厳はないのです。これは生命の原理です。これに対し、このようなヒトが集まって構成する人間社会では、尊重されるべきは、個なのでしょうか全体なのでしょうか。これこそ人問の根本的倫理問題ですが、これについては、社会の考え方が時代により状況により 180度変わってしまいます。生命の原理が根本において人問の倫理を規定することになると考えるべきか、あるいは原理的に二つは無関係と考えるべきなのか、深い考察を必要とするでしょう。もう一つ Apoptosis が人間に真剣な考察と議論をせまるのは, Euthanasia (安楽死) の倫理性についての問題です。ここでも生命の原理と人問の倫理の関係が深刻に問われます。
Homeostasisも今人問杜会が無視している生命の原理です。地球上の人口の野放しの増加は、ガン細胞の増殖と同じことで地球生態系の Homeostasisの原理に反しています。人類の長い歴史の上で、飢餓、病気、戦争が人口増加に強力な抑制作用を果たしてきましたが、近代の文明と文化がその抑制作用をかなりの程度はずすことになったために、地球人口の野放しの増加が起こり、それが地球生態系の全面的破壊をひきおこしています。これについても、人間の文化や倫理は生命の原理を無視してよいかどうか、宗教的戒律や Euphemism一優等生的言辞一から離れて考察や議論をすべき時がきていると思います。
( April.12, 2010 西村 肇)