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20年前に行った予測 中国の将来発展
1980年、教授就任講演でソ連崩壊を予測し、それがまさに図星の大当たりであったので、1993年定年退官の時は再び20年後の世界を予測することを頼まれました。その時取り上げたのが「中国の将来」です。1993年、日本にはまだバブルの好況の余韻が残り“Japan as No.1”のほろ酔い気分も残っていました。一方、1989年の天安門デモ弾圧で大きく傷つき停滞していた中国は、最高指導者Den Xiaoping(とうしょうへい)が「政治は共産党支配、経済は資本主義」という常識やぶりの政策を強行した結果、1992年にははじめて10%の驚異的経済成長をしました。しかしその結果、物価が急騰し、汚職が蔓延し、大混乱の状況になりました。それを見てわが国の新聞や雑誌では、1―2年後の中国の崩壊が真剣に議論されてました。そのため多くの人が中国の将来は危ないと思っていました。私が予測をおこなったのは、このような雰囲気の中でした。私は3段階に分けて予測を述べました。
目次
■ Episode 文化革命直後の北京と 私の「毛沢東批判」講議
■ Deng Xiao-ping(とうしょうへい)による中国再建
本文
どんな予測だったか
まず、5年後に中国は国際社会における注目度と影響力で日本を抜くと述べました。これに対し誰もが不思議そうな顔をしました。崩壊の可能性も十分に考えられる重病人の国だという見方がみんなの間に広がっていたからです。ところが実際は私の予想をはるかに超えて進みました。1年後にはHarvard 大学でのJapan Seminarには人が集まらずChina Seminar は超満員と伝えられました。5年後の1998年にはClinton大統領が訪中して各都市を巡り、中国の人々に親しく話しかける努力を行いました。米国がアジアの中で中国を最も重く見ていることは明らかになりました。その理由はどんな予測をも超えて急激に発展した経済力にあります。中国の輸出総額は93年以降、年率15%で伸び5年間で2倍になりました。この結果、米国に対して巨額の貿易黒字となりましたが、これを全て米国債の購入に当てたため、米国は中国の「ご機嫌」を気にせざるを得なくなったのです。
予測の第2弾は将来の中国の経済力についての予測です。私は2,30年後、中国はGDPで日本を追い抜くだろうと予測しました。この私の予測は「それはない」という声と続く大笑いで打ち消されました。当時、中国のGDPは日本の1/8でしたし、日本のGDPは相変わらず年率15%ほどで伸びていましたから、中国のGDPが日本を追い抜く可能性などまったく考えられなかったからです。しかしそれから16年たった2009年に中国のGDPは日本を抜いて世界2位になりました。予測より10年はやかったことになります。誤算の原因は日本のGDPが1995年以降まったく伸びなかったことでしょう。
予測の第3弾は50年後の予測です。これこそ私の予測の核心ですが、私は50年後の世界の状況の予測からはじめました。それは一言でいえば、Europe の「自己閉じこもり主義」です。ソ連崩壊後のEurope再統一のあと、Europeの内部結合力は強まりました。経済的にも文化的にもです。そして外部、特にAsiaに対しては「Europeに来るな」という感じです。必然的に日本はAsiaに戻らざるをえないし、AsiaはAsiaで固まらざるをえません。ところがAsiaには、Europeのキリスト教のような精神的結合力はありません。あるのは、相互経済依存という便宜だけです。つまり、将来日本が生きる世界は「Asia経済連邦」です。その実質的中心は、人口と経済力で他を圧倒する中国しかありません。そこまで説明して、結論を次のように述べました。「50年後、日本は完全にAsiaに戻り、中国連邦の一員になる」です。これは、「やめてくれ」と言う奇声と「そんな馬鹿な」と言う抗議の表情で迎えられ、それに続く大爆笑はいつまでも収まりませんでした。
私は爆笑を抑えるために、私自身は長年の体験で痛感しているが、多くの日本人が見逃している1点について注意をうながして、講演を締めくくりました。それは次の点です。日本がAsiaに戻るというと、多くの日本人は安心します。今まで少しムリして白人と付き合ってきたのに、今後は同じ肌のひとたちと本音で話せるという気がしてです。でもこれは完全な間違いです。今まで外国人といえば、欧米人としか付き合ってこなかった日本人にとって、アジア人と付き合うのは、頭の切り替えが必要で、決してやさしい事ではありません。問題は、日本人と欧米人との間では当然であった人格的信頼関係が、Asia では必ずしも期待できないからです。それは両方を体験した人々がみんな大筋において認めることですから、かなり根本的な理由があるはずです。これについて私はこう考えます。日本でもEurope でも武士あるいは貴族が支配した時代が長く続き、「同格者と認めた相手には信義をまもる」という武士文化が、社会全体にも影響を与えました。同格者 (Peer) とは、自分一人の力で生きるもの同士が、相手の力を認めて生まれる観念で、個人主義と自治の伝統の長いEuropeでは、基本概念です。これに対し、中国や他のAsiaの国々では、官僚が大衆を支配したため、大衆の間では、地位の上下の観念はあっても、「同格者」の観念と「同格者間の信義」の観念は育ちませんでした。それがあるのは、Elite の間だけです。徹底した大衆であったMao Zedongにもそれはなかった、それが彼が中国で成功した原因だと考えます。「今後中国との付き合いで注意すべきは、毛沢東的人間だ」と述べて私は話を締めくくりました。
予測の根拠 中国現代史の四段階と個人体験
予測の二つの根拠
私がこの予測にたどりついたのには二つの根拠があります。第1は私が少年時代からその時まで50年間、かなり深く知っていた中国の大衆の気持と行動の確実な変化です。そして大衆のもつ巨大な力です。大衆は時代を動かすVisionもPassionも持ちませんが、何かにそそのかされて以後着だすと、すごい破壊力を持ちどんな政権でも倒すことが出来るという事実です。第2は他国の10倍以上の人口をかかえた中国の運営に絶対に必要な「支配者と支配構造」は何かという認識と、中国は過去の重大な失敗から学んで今は機能する支配構造を作り上げたという認識です。過去の誤りとはMao Zedong(毛沢東)の誤りでこれほどに邪悪な支配者が君臨しても生き残れた中国だから、それがなくなった今後は驚くほど発展の可能性があるというのが私の理屈です。
中国現代史の4つの段階
この見方は、私が見出した中国現代史の4段階とそれにそっての個人体験が強い支えとなっています。4段階とは、@ 日本の植民地時代 A 抗日戦を利用して共産革命が成功する時代 B 新中国の開祖皇帝になった気のMao Zedong が、大衆を扇動利用して、革命を遂行成功させた仲間全員と気に入らない人間、合計7千万人を殺させた時代 C 大衆の神であるMao を神棚に上げたままの非毛沢東化の方法として「共産党支配による資本主義」を進めている現代です。
根拠に関連する個人的体験
この4段階について、私は個人的にはつぎのような体験をしています。戦争中、私は子供として満州にいました。そのため、毎晩客間に集まる大人達から、満州人の「貧しさ」と「不潔さ」と「ごまかし」について、耳にたこができるほど聞いていました。でもそれを直接に体験したのは、敗戦後です。中国人の暴動によって日本人は乞食同然になり、中国人大衆の間で物売りをしながら、一年間生き抜いたからです。その生活の中で、Peng De-huai (ほうとくかい)の率いる共産軍に出会いました。それまでの中国人についての常識をまったく破る軍隊で、誰もが共産軍の最終的勝利を確信しました。でもその時、強調されていたのはMao Zedong (毛沢東) の名です。
Mao の名に再び接したのは、1950年、日本でMarx、Lenin につづく革命思想家としてMao Zedongの著書が紹介され、Maoismとして圧倒的評価を得た時です。この時Maoは、日本の共産党に対し武装蜂起を指示し、それに従って、地下軍事活動にでる若者が多数出た時代です。これに対し私は、彼の著作を読んで、彼には知的探求に必要なち緻密な思考能力がまったく欠けていること、それなのにMarx, Lenin, 弁証法 などの言葉を振り回して、無知な人々を煙にまくペテン師であると感じ、強い批判派になりました。「大躍進」もインチキであることをすぐ見抜きました。ですから「大躍進」の結果、数百万人が餓死するのを見て、Maoを強く批判したPeng De-huai 将軍を、逆手にとって逮捕監禁し獄死させたMaoを強く憎みました。日本中の文化人がこぞって礼賛した「文化大革命」もNazi を超える蛮行と非難しつづけました。ですからMao が生きている間は中国に呼ばれませんでした。
それでも死後はすぐ、Process Systemの講義のため、Beijing(北京)に呼ばれました。 私の作ったProcess System 理論が、Computer による化学工場設計のために必須であることを日本側関係者から聞き、すぐ利用できる結果だけを聞きだそうとしたのでしょう。私は黙って引き受けましたが、本心は、少しでもMao Zedong の間違いを気付かせる覚悟で出かけました。このままでは、能力ある中国人が気の毒と思ったからです。2週間の講義の間、Maoの間違いを気付かせるように話を進め、最後の日に「Mao Zedong は間違っていたと思う」といいきりました。中国国内で、公開の席で行われた最初の「毛沢東批判」です。そして多分最後のそれです。その後もこのようなstraightな批判は、絶対に許されてないからです。
この滞在の途中、取り調べも経験しました。それによって、批判者を陥れるMao Zedong のやり口が少しわかった気がしました。知力、実力の高い者に仕事させ、成功の後、政治指導と称して自己批判させ、犯罪者に仕立て上げ、成果を横取りするMao のやり方です。中国では、工場から大学まですべての組織に共産党組織があり、これが政治指導という名目で支配権をもっていますが、それは、実際の功労者を消して、Mao Zedong が成果を独り占めするために考えた仕組みであるように思います。Maoの時代、この共産党組織内の序列の原則は単純で、革命前の出身階層の低いものほど上でした。化学工場の工場長も、工科大学の学長も、ゲリラ戦が専門の貧農出身者でした。能力は関係なしでした。その方がMao への忠誠度が高いという単純な理由からでしょう。
Mao の死後、彼の死をまっていたDong Xiao-ping (とうしょうへい) がこの序列に手をつけました。「白いネコでも黒いネコでも ネズミを取るネコは良いネコだ」との理屈で、高い教育があり頭の良い人間だけをえらんで、組織の責任者にしていきました。以前、責任者は政治ばかりで、仕事は全然できなかったのですが、今度は責任者が、先頭で仕事を指導するようになりました。過去の失敗から本格的に学んだのでしょう。私が、「今度は中国は強くなる」と確信した最大の理由です。
Episode 中国の大衆と共産革命
わたしは1940年、7歳の時に満州に渡り、敗戦の翌年引揚者として帰るまで満州で暮らしましたので、中国人大衆を知る機会はありました。ただし私の体験は、敗戦を挟んで、上から見た体験と、下から見た体験に別れます。敗戦までは満州は植民地ですから、日本人と中国人は居住地は別、生活上の接触もなく、たまに中国人街を訪れて、生活を外から見た経験しかありません。これに対し、戦後私たちの街では、中国人の大暴動が起こり、日本人は一切を掠奪、破壊されて乞食同然になりました。大人はソ連軍の使役か物売りをしていきていましたが、子供の私は、中国人街でタバコの立ち売りをし、中国人の同情にすがって生き延びました。中国人を下から見た経験です。
満州で中国人について抱いた一番の印象は「きたない・不潔」です。中国人街では、甘く煮た「あんず」を串にさした菓子が人気商品でしたが、驚いたのは「あんず」に真っ黒になるほどハエがたかっていても一切気にせず追い払わないことでした。「ハエがたかるのは美味しいことの証拠」というのが中国人の理屈と聞きました。戦後、物売りとして中国人街で暮らしてはじめて、なぜハエがそんなに多いのかが分かりました。中国人街には公衆トイレはないので、みんな直近の空地に「野糞」をします。それをすぐブタが食べ、残りにハエがたかるのです。「野糞」が容易なのは用を足す時、ズボンを脱ぐ必要がないからです。男女ともズボンは下が割れていて、しゃがめば用が足せました。この便利なズボンは着たきりで、夜も着替えません。しかも風呂に入るのは年に数回なので、満州人の体は、しっかり臭かった訳です。日本の植民地時代は、日本人と同じ職場で働く満州人に対しては、不潔と口臭を厳しく禁じていたので改善されていましたが、敗戦後は元に戻っていました。
中国人の人柄や品性は、子供にはよくわかりませんでしたが、大人が好む話題だったのでよく聞いていました。「ちょっと油断するとすぐごまかす」ということでした。人をだます「ずるさ」ではなく、ごまかせるならごまかすのが普通になっていました。ですから見つかっても「pu kang xi(カンケーナイ、大したことじゃない)」というだけで、決して謝りません。この「ごまかしの普遍性」がわかったのは、戦後の乞食少年時代、食べ物欲しさに中国軍隊の炊事場をうろつき、炊事係の老兵と親しくなって話を聞いたからです。この老兵は、米国支給の軍服で近代装備でしたが、制服を一枚脱ぐとその下は不潔で臭い満州農民でした。その彼の自慢は脇の下につけた金の腕輪でした。給料何年分に相当する財産です。親しくなって教えてくれた秘密は「ごまかし」でした。軍隊でもすべてが請負制度だそうで、彼は100人の兵士に食事を出すことを請け負っていましたが, 90人分の材料で100人分とし、10人分を儲けるということでした。驚いていると, 部隊長は120人の中隊を請け負っているが, 実際は100人しか雇わず、20人分の給料を儲けているという話でした。その後、蒋介石直属の査察官が来て、彼はクビになったから本当です。
中国人の「不潔さ」と「ごまかし」は、中国人の本性のようなもの、軍隊はそれに輪をかけたものと思っていた者にとって、Peng Dehuai(ほうとくかい)が率いる共産軍は、中国の軍隊とは思えず、神の国からの軍隊に見えました。新編第四軍とも呼ばれたこの軍隊は、朝鮮戦争の際、一時朝鮮全土から米軍を追い落として有名になりましたが、この軍隊が始めて我々の街に現れたのは、蒋介石軍が退却した翌々日の夕方でした。突然若い兵士が訪ねてきて、野菜を少し分けて欲しいと、軍票をさし出しました。共産軍の軍票は受け取れないと断ると、少し悲しそうな顔をして、おとなしく帰って行きました。軍票を断られておとなしく帰る兵隊は、初めてでした。日本軍でも蒋介石軍でも、そんなことを言われたら、只では済まなかったでしょう。中国の民衆から見て、それまで、兵隊はヤクザと同然のこわい存在でした。ところが、新四軍は違っていました。服装は清潔、ニヤつかず、きりっと口を結んだ顔は知的であり、民衆を対等な人間としてみて丁寧な言葉で接して来ました。
不思議な軍隊があるものだと思っているところへ、ふたたび先程の兵士が戻って来ました。今度は「炊事をするので鍋を貸して欲しい」というのです。中国では物を貸して戻ってくることはないので、少し水が漏るボロ鍋を貸しました。しばらくすると、食事が終わったらしく鍋を返しに来ました。貸した物が返って来るだけでも驚きなのに、見ると鍋はきれいに洗ってあり、穴は応急修理してありました。これには感激しました。感激のあまり、自分が食べるはずの野菜の半分あげると、丁寧に礼を言って帰って行きました。その後ろ姿を見ながら、全員が金の腕輪の蒋介石軍とのあまりにもの違いに、しばらく呆然としました。そして蒋介石軍と共産軍との抗争は、「結末は明らかだ」と確信しました。同じことを中国の大衆が感じたことは間違いありません。それが共産軍が実際に勝つ大きな力になったと思います。将来の国の姿など考えてもみなかった大衆でもこれだけはっきりした違いを見せられると新中国と共産主義に期待するようになったと思います。大衆自身はそう気付かないまま、大衆の心の奥底で共産主義への精神革命が起こったというのが実感です。
Episode 中国の新生
1949年10月1日、Ma0 Zedongが天安門の上に立って中華人民共和国の成立を宣言し、新生中国が発足しました。これに続く10年間は、内戦と抗日戦で破壊しつくされ、貧しさの極みにあった中国が、目覚しく立ち上がって世界一流国になる構えを見せた、もっとも輝かしい時代です。
その頃、毎日のように新しいニュースが入って来ましたが、一番印象に残っているのは、中国にあれほどいたハエがいなくなったというNewsです。殺虫剤は一切使わずに手で取ったそうです。Newsを信じられない記者が、意地悪い目で調べたが、本当にいなかったそうです。この結果は私には理解できました。Peng Dehuai の軍隊に接した時の中国人の驚きを知っているからです。中国人の意識が変わったのです。以前、日本の植民地時代にもハエ取りをやかましく言いましたが、中国人は、お金にならないことには動きませんでした。そこで1Kgいくらの奨励金を出すことにし、買取を始めたら、ハエはじゃんじゃん集まりました。しかしハエは減らない。調べてみると、庭でハエの大量培養をしていることがわかりました。それが新中国以前の中国人でした。
新中国で一番変わったのは、教育の普及です。大量の若者がソ連に行って最高の教育を受け、帰国しました。また数千人のロシア人技術者が、技術指導のために中国にの滞在しました。それに加えて大きな影響を与えたのは、アメリカで研究していた人々の帰国です。国交がないので、一旦帰国したら米国に再入国できないことも、研究条件は極端に悪くなることも承知で、自分たちの国へ帰って来ました。 これらの人が持ち帰ったのは、良い意味のAmerica 流 Pragmatismで、それはソ連流の原則主義より、中国人にmatchするらしく、新中国の高等技術教育の特長になりました。ロケットのQian Xuesen(銭学森)がそれを推進した中心です。米国のロケット開発の中心にいた博士は、建国後すぐ帰るところを、5年間海上監獄に幽閉された後、紙一枚持ち出しをゆるされず、帰国しましたが、15年後、まったく独力で人工衛星の打ち上げとICBMの完成に成功しました。最年少でNobel賞をもらい、米国の至宝であるLee とYang の二人の天才も、国交回復後はすぐ中国を訪れ、退職後は、中国で研究を指導しています。
新中国成立直後の中国文化はこのような雰囲気の中で非常に活気がありLevelの高いものでした。明陵など主な古墳の発掘が行われたのもこの時期です。出版も盛んでした。梅鎮岳の「原子核物理学」など、すぐ第一線の研究に役立つもので、当時の日本にはなかった良い教科書でした。自然科学以外でも良いものが出ています。1978年私がBeijingを訪れた際、案内のguideが大事に持っていたのは、1950年出版の市内案内書でした。「その後これ以上のものは出ていません」との話でした。この時代が、創造的気分を証明するEpisodeとして覚えています。
この雰囲気に追い風をかけたのは、1956 年のKhurshchevによるStalin批判と、それに続いて起こったソ連文化の「雪解け」です。Stalin の強制収容所での生活を描いたSolzhenitsynの小説が、政府の出版社から出たほどの時代です。 それに呼応するかのように1957年の2月、Mao Zedongは、人民会議で4時間の特別演説を行い、「今や共産党は、人民からの批判を必要としている。あらゆる問題について、政府に批判があれば、自由に言って欲しい」と述べました。「さすがMao Zedongだ」と喜んだ文化人たちは、壁新聞と集会で思う存分発言しました。ところがこれは、Maoが仕掛けた罠でした。 その年の6月、まったく突然に人民日報に、「共産党に対する批判は一切許されない」とする社説でました。Maoの直接の指示です。そしてただちに10万人以上の文化人、知識人が逮捕され、長い暗黒の時代に突入しました。
Episode 大躍進とLushan会議
暗黒時代はMaoが指令した「大躍進」で始まりました。そしてこの「大躍進」は1958年から61年まで続きました。この期間は、人工衛星に成功してMissileに自信をつけたソ連が、危険な戦略に出てCuba危機を招来した時代で、国際情勢は極度に緊張していました。一方国内では、1960年の安保改定をめぐっての左右の対立と、三池炭鉱争議をめぐっての労資の対立が、重なって先鋭化し、ただならぬ雰囲気でした。したがって人々は、中国の「大躍進」については、まさに対岸の火、「中国らしい話だな」と思った程度で、それ以上の関心は盛り上がりませんでした。その後の文化大革命の時とは、まるで違います。文化革命の時と違い、人の交流がまったくありませんでしたし、情報も、「人民日報」に出るMao主席の指示と、それを讃える成果宣伝しかなかったからです。
その中でも私は、事態の真相をつかむ努力をしました。かねがねMao Zedongの「いいかげん思考」と「政治主義」に警戒心を持っていたからです。そのことは10年後、文化大革命の際に、すぐ事態の真相を見抜き、即座に徹底した批判を始められた理由と思います。私が少ない情報の中で知りながらも、大躍進の非合理性に気付いたのは次の4点です。
第1は農産物の増収です。Maoが「農産物の生産を2倍にせよ」と指示すると、早速「米の反当り収量」を2倍にした人民公社の実例が、人民日報に出ました。驚いていると、次に3倍が出、翌年は10倍という例が、Mao思想の成果として出ました。これについては、私のまわりの専門家の見方は、冷ややかで一致していました。公開収穫の一週間ほど前に、よその田で生育した稲株を持ってきて、密植したのだろうとのことでした。中国人一流の「ごまかし」です。でも悪質なのは、ごまかしとわかっているのに、大宣伝をする人民日報など共産党本部と、それに乗せられて、「ごまかし競争」に精を出す人民公社幹部です。収穫量を高く報告すれば、自分は出世して中央に行けるでしょうが、人民公社の方は、供出量は確実に引き上げられ、自分達の食料まで供出させられ、、餓死者を出すようになりました。
第2は、中国いたる所の農村で、燃えるものすべてを燃やしつくして行われた原始製鉄です。これは、「鉄鋼生産量を、3年で英国なみに、10年で米国なみに」引き上げるというMaoの夢想指令に発しています。でもこれはMaoが、多分、鉄には鋼鉄と鋳鉄の区別があること、建設に必要なのは鋼鉄なのに、原始製鉄では、鋳鉄しか出来ず、鋳鉄は工業には役立たないことを、知らなかったから出した指令です。燃料と労力の例の無い壮大な無駄使いでした。この愚かしさは、少しでも技術を知る者には、誰にでも分かるはずなのに、中国全土で燃やすものがなくなるまで続けられました。一旦動きだした巨大な愚かしさは、作った本人以外には、止めようがないのです。
第3は、農村では農民が、自分の土地と住宅を否定され、約1万人単位の人民公社に集結させられたことです。各自の家での炊事、食事が禁じられ、食堂での給食になりました。これは、Maoが、「中国は、すでに共産主義の段階」と宣言したからです。共産主義とは、「食べたいだけ食べる社会」と解釈した人民公社は、1年分の食料を半年で食べつくしてしまい、種もみまで食べてしまい、餓死者多数と聞きました。
このように大躍進は、まったく非合理な夢想計画のために、多数の餓死者(3千万〜4千万人)を出した恐ろしく愚かで、非人道的な行為ですが、問題は、「なぜMaoはそれをしたのか」と、「誰もその間違いに気付いたはずなのに、なぜそれを止めなかったか」です。Maoの動機は、はっきりしています。ソ連と同様の「雪どけ」と「個人崇拝批判」が中国で起こることが、死ぬほどこわかったのでしょう。自分がStalinと同一視され、天安門の上から引きずり下ろされ、批判の集中砲火をあびるのは、彼にとっては、想像できないこわさだったのでしょう。大躍進は、それを防ぐための決死の反撃だったと見ます。Maoには、過去に、絶対絶命の窮地を脱するために、「大ばくち」を打って来た歴史があります。湖南から延安への一万キロの長征も, 西安での蒋介石ら致も、その「大ばくち」が成功した例です。
ところが今度の「ばくち」は、誰の目にも大失敗でした。中国の農村の大半が、深刻な飢餓に直面し、多数の餓死者を出していました。当然、共産党中央はこれを認識し、対策を考えていたはずです。当時流れて来た話では、国家主席のLiu Shao-Chi(りゅうんきゅう しょうき)、首相のChou En-lai(しゅう おんらい)、人民軍総司令官のPeng Dehuaiの3人が相談して、Maoに主席の地位から降りてもらうために、Lushan(ろざん)で共産党中央委員会総会を開いたそうです。そこで勇敢なPeng Dehuaiが、Maoの前で、大躍進の失敗とMaoの責任について、明確に述べたそうです。これで会議が動くと思われた時、それまで黙って聞いていたMaoが、「一言いわせて欲しい」と立ち上がったそうです。そして「大躍進の失敗は、批判者の言うとおりだ。そしてその一番の責任は自分にある。これは認める。しかしそれは、みんなで決めたことではないか。しかもそれは、原則において間違いであったろうか。それを、結果の失敗だけで論評してどんな意味があるのだろうか。特に私を責めても何になるだろうか。私はすでに、二人の息子を朝鮮戦争でなくし、十分な罰を受けているはずだ」と言って、泣き崩れたそうです。それで会議の雰囲気はまったく逆転し、Pengを反逆分子として逮捕処罰することが決議されました。LiuもChouもPengを裏切って、これに賛成したという話でした。
これは当時、もれ伝わって来た話です。真偽は確かめようはありませんでしたが、確かなことはPeng Dehuaiが消えたことです。人民軍総司令官は、この時に真っ先にPengを非難追及した貧相なLin Biao(りんぴょう)に変わりました。Lu Shan会議の正確な詳細は1988年に出版されたLuo Shi-xuのAltar of Utopiaで明らかになりました。それによって上の話は大筋において真実であることが分かりました。ただ一点大きく違っていたのは、この会議を計画したのは、Liu Shao-Chi ではなく、Maoだという点です。Maoは自分に批判的な気持ちを抱いているPengを、おとしいれるため、幹部を高級保養地Lushanに呼び集め、自由な雰囲気のもとで、Pengが批判的な意見を言うように仕向けたのです。Maoの奸智(悪知恵)は追随者の知恵をはるかに上回っていました。こういう人物に最高権力を取られたら、後はあきらめて、死ぬのを待つしかないのでしょう。
Episode 文化革命直後の北京 「毛沢東批判」講義
その後起こった「文化大革命」については、私は、直接的な個人的体験はありません。中国が完全に閉じた国になり、私のようなMao Zedong 批判者の入国を、絶対に認めなかったからです。ところが1978年、Mao の死後、さきに述べたよう、私は講義のために中国に呼ばれましたので、この機会を利用して、「文化革命」の爪あとを注意深く見出すと同時に、まだ記憶の生々しい知識人たちに、その経験と感想を語ってもらうと思いました。Mao Zedong の「わな」を経験した人々の口は固かったのですが、2週間の講義を通じて私が信頼されたこともあり、双方がロシヤ語を使うことで、政府のSpyである通訳を介さずに話ができたこともあり、それまで誰にも出来なかった「文化大革命」の間接体験をすることができました。この特異な体験は、帰国後すぐ「中央公論」に10頁の論文でくわしく発表しました。私の「文化大革命」についての経験Episodeは, この間接体験にほかなりませんので、以下に、それをそのまま引用します。
北京の第一印象
北京の第一の印象は、田舎という感じである。解放以前にくらべても田舎になったという感じだった。そう感じる第一の原困は、みんなの服装が簡単で画一的なことである。みんな青い木綿ズポンに白い半袖シャツで、シャツを外に出して着ていた。男も女も、学生も農民も、勤務中のスチュワーデスも、北京飯店のウェイターも、工場労働者も区別はない。シャツをズポンにつっ込んでいる人は一人も見なかった。もちろんネクタイをしている人はいない。モスクワ留学した人に聞いたら、モスクワではネクタイをしていたけれど、中国ではしたことはないという。「気分を変えるためにたまにはしたらどうだ」と言ったら、「そんなことしたら、行き交う人がみんな見るから大変だ」ということだった。要するに農村なのである。
北京をじっと見ていると、都会をつぶして中国全土を農村にしようとした毛沢東の意思を感じることができる。彼はさらに進めて中国全土を延安にしようと思ったのではないだろうか。人は、都市に住むのが幸福なのか、農村に住むのが幸福なのかはわからない。しかし、この農村化政策によって文化が大きな打撃を受けたことは碓かである。知識層も。
北京の本屋
北京の王府井にある新刊本展をたずねてみた。広さはせいぜい四十平万メートル。小さい漁村の本屋さんぐらいである、半分以上が科学技術関係のやさしい実用本で、残りの棚は社会科学を中心に四つぐらいしかなかった。ドイツ古典哲学、レーニン伝などが目についたので買ってみたけれど、いずれも百五十ぺージぐらいの小冊子で政治的バンフレツトの域をあまりでていないように思う。題名をみても、教科書のようなものぱかりで、もっと掘り下げたものは、見えなかった。文芸閑係は、中国のものがほんの少しあるだけで翻訳ものはほとんどなかった。
私は、次の講義の時、本があまりにも少ないことにショックを受けたという話をした。そして日本では、敗戦後多分一番早く復興したのは出版であるという話をした。われわれは一食に芋一切しか食べられなかった時でも、空腹を忘れるためにも本を読んだという話をした。文学書、哲学書を片っぱしから読んだという話をした。ロシヤ文学では、トルストイ、ドストエフスキイ、チェホフなど、フランス文豪ではユーゴー、パルザックなどを読んだというと、驚いたことに聴衆の何人もがトルストイ、ドストエフスキイ、ユーゴー、バルザックと、私のあとにくり返すのである。これらの本は今まったく手に入らない。多分二十年も前に読んだのであろう。なつかしさのあまり、口をついてでたのだと思う。その後、北京図書館に行ってしらべたら、これらの本は、閲覧カードがなかった。すべて廃棄されたのだろう。
古本屋での発見
翌日は東風市場にある古本屋に行って見て新しい発見をした。ここにある自然科学関係の本の中には新刊本と違い程度の高いものが多かった。『原子核物理学』というのを見てみたが一九六一年の出版でリー・ヤンの理論や湯川の核力理論も含まれていて大変程度の高いものだった。 ほかに『深海海洋微生物学』という本も買ってみた。ロシヤ語からの翻訳であるがアート紙の色刷グラピアページが三十ぺージも入った五百ぺージの堂々たる学術書であろ。出版が一九六四年なのを見ると、すでにソ連と断交し、ロシヤ語の読めない世代がでて来たので、翻訳の必要があったのだろう。日本では、専門的すぎてとても出せない本である。中国がこのままのびていたら、確実に世界のトツブレベルにいったと思われる。
北京の街で、この二冊の本に出会った時の感じは驚愕というのに近いものだった。現在の北京の文化水準から見ると、このような本が過去に出版されたということが信じられなかったのである。化石を拾った感じだった。多分、中国の現在の若い人でこれらの本を読める人は、まったくいないと思う。この二冊の本と最近やっと出版され出した本の落差はあまりにも明白だった。革命後十年で非常に高いレペルに達しながら、一挙に崩壊した文化の廃墟を見た気がした。
この本屋で本の出版年代を片はしから調ぺてみると面白いことに気づいた。一九五七年に一つのビークがあり、しばらく出版がとだえて、六〇年に再開して、六一年にもう一つビークがあり、六四年以降の本は見当らなかったことである。人文関係では一九五七年に良い本が出ているようだった。万里の長城に案内してくれるガイドが大事に持っている案内書も五七年の出版だった。後で調べてみると、一九五八年が大躍進、六六年が文化大革命のはじまった年である。
その後、ある席で、私は中国の印象をたずねられたので、書物に関する私の経験と印象を話し、文化に関していえば、革命後十年で非常に高いレベルに達しながら、一挙に崩壊した廃墟を見る気がすると述べ、なぜそのような事がおこったのか、意見を聞いてみた。「近年、四人組による妨害がありました」という型通りの答えが返って来た。しかし出版のピークについての四人組出現以前の問題を指摘すると、「では、くわしくお話しなければなりませんが」と言って次のように述べた。「左の影響はすでに一九五七年からありました。そして知識人に対する間違った政策が取られました。文化大革命はそれがより一層はっきりしたということです」 これを答えた人は、私とは個人的にはほとんど話をしなかった人で、多分公式的な立場から答えてくれたのだと思う。現在の中国の指導層のなかば公式的認識と言っても良いのではないかと思う。つまり現在の中国指導層は、大躍進も文化大革命も毛沢東の仕業と見ているのである。
「左」というのは、極端な精神主義と平等主義を主張し、知識人の文化を否定するグルーブのことらしい。農民革命派というべきであろうか。このグルーブはいまだ根強いように見える。うしろに十億の農民がいるからである。中国共産党は、この農民革命派と都市知識人の合作であった。毛沢東は「左」から出ながらこの合作を指導して成功した。しかし、後年、毛沢束はふたたび「左」に帰ったように思う。
知識人の下放体験
文化大革命の最中のことについては、みんな気軽に話してくれたが、聞いて驚くことが多かった。北京を離れる前日、工科大学の幹部が招待してくれた宴席で文革中どんな経験をしたのか質問してみた。みんな大笑してから答えてくれた。教授で共産党員でもある学長は、ケ小平に似た感じの磊落な人である。彼は例のジェット機の格好をさせられたあと、二年間農村に送られたと言った。化学工学の主任である共産党の賛任者は、「おれは四年だよ」と言って笑っていた。これは私が聞いた最長記録である。彼のような立場の人が、もっともきびしくやられたのだろう。彼は解放前、南京の大学に入ったけれど、秘密党員だったので勉強はせず、もっぱら革命の方ばかりやっていたそうだ。そういう人が解放後、大学の管理部門に入っているのである。人の気持がよくわかる実に良い人だった。「少しぐらいは本も読めたでしょう」と聞いたら「とんでもない。こればっかりだ」といって、「くわ」で畠をたがやす仕草をした。活字が読めなかったのは、農村ぱかりではないらしい。工科大学でも、外国語の文献が読めるようになったのは、二年前、その一年前までは、科学技術関係の文献さえも読むことはできなかった、という。許されていたのは政治的文献だけで、毎日、毛沢東思想の学習をしていたという。
しかし文化大革命の最大の被害者は彼らではない。三十歳以下の世代である。私は偶然外国語大学の日本語学科を出たという二十七、八歳の青年と知り合ったが、彼の日本語はかなりたどたどしい。「六時でいらっしゃいます」というようなことをいう。よく聞いてみると、「私は六時に来ます」といいたいらしい。「間違えるといけないから、主語を略さない方がよい」と言ったが、主語という言葉がわからない。「どうぞお食べして下さい」というから、「して下さいは、名詞にだけつくのだ」と教えても、名詞と動詞の区別がわからない。大学時代、一体、何を勉強していたのか聞いてみた。「大学の時には、大字報ばかり書いてました」という答えであった。毎日毎日、喧嘩のような状態だったらしい。「鉄砲で撃合いをしたこともあるのですか」と聞いたところ、自分達の大学では、それはまったくなかったけれど、清華大学と北京大学には銃を持ったグルーブがいたという話だった。
吊るし上げのようなことには、大学生はあまり加わらなかったそうである。「中学生(日本の高校生)がやりました。なにもよくわかりませんから」という話だった。つまりその組織にまったく関係ない中学生がやってきて、批判集会を開いて幹部の吊し上げをやったらしい。ただしそのうしろでこれを指図していた人がいることは碓かだろう。やられたところとやられないところがあり、コンピナートなど、主要工場はこれからまぬがれているからである。
毛沢東に対する評価
中国での最初の日曜日、明の皇帝の地下墳墓に案内ざれた。大理石の二重の扉で守られた一種のビラミッドである。ヨーロッパの教会建築と較べれば、豪華けんらんとはいえないが、一人の人間の墓のためにこれだけの大規模な贅をつくした工事が行なわれたのは、近代ではほかに例がないだろう。完全な神様扱いである。私は、人間を神にする旧中国の伝統をじかに見た思いがした。と同時に、人間を生きたまま神にした、日本の過去を生々しく思い出した。
翌日の講義では、明の地下墳墓を訪ねた話をしたあと、私が一番強く感じたこととして、人間を神に仕立てた日本の誤りについてのべた。そして日本の近代化は天皇の人間宣言以後やっとはじまったこと、人間が神である間は、科学的精神や研究は阻まれざるをえなかったことを、例をもって話した。そのあとみんなに向って、Do you love Mao Zedong, respect Mao Zedong or Worship Mao Zedong? と聞いてみた。すると聡衆の一人がいきなり立ち上がって、"We love Mao Zedong from the bottom of our heart"と答えた。
私はそれらすべてだというような答を期待していたので、We love Mao Zedong という答えは、中国人と毛沢東との関係を物語る断乎としたひびきをもって印象に残った。しかし、何か大向うを意識した模範解答のような感じもさけることはできなかった。
毛沢東に対する気持を実感したのは、街の一膳飯屋で飯を食った時である。われわれ招待客は朝昼晩と北京飯店で食事をすることになっていて、人民公社の食堂にいきなり飛びこんで飯を食べてみるというようなことは許してもらえない。私はなんとしても普通の人が食べているものを食べてみたかった。そこで、道端に見えた食堂を指して、どうしてもここで飯を食べたいと頼んでみて、成功したのである。附近の工場労働者が来る食堂だった。せまいたてこんだ食堂だが、みんな「どんぶり」にビ一ルをついで、ゆっくり食事していた。大低は肉のいため物一皿と主食をとっていた。いろいろ食ベてみたけれど、どれも味は満足すベきものだった。値段は、肉の「いため」が75円、米の飯が45円、小麦粉で作った主食が8円から12円だった。つまり100円だすと一応の食事が可能だった。驚いたのは炊事場の清潔なことで, 日本の中華料理屋を見られたら恥かしいと思った。
みんな服装は貧しかったけれど、落着いた顔で食事をしていた。みんなの間で食事をしていると、中国では食の問題が一応満足すべきレベルで解決しているのだという感じを深くした。解放前の中国を知っているものにとっては、これは瞠目すべき事実なのである。私は一般の人が毛沢東に感謝する気持が良くわかる気がした。日本流にいえば、「毛沢東さまさま」という気持であろう。「すぺての功績は毛沢東にある」とは考えない人でも、毛沢東がいなければ新中国はなかったろうという点については、ゆるぎない確信をもっていた。この意昧で毛沢東を愛すると言っても、その内容は単に敬愛するということをはるかに超えたものに見えた。現在の中国の民衆のレベルから見ると、敬愛する指導者の一生を前半と後半に分けてその評価を変えるという芸当はむずかしい。いきおい全面的肯定か否定しかない。否定がありえない以上タブーにつづくと見るべきである。民衆で思い出すのは、十数年前レニングラードで乗ったククシーの運転手である。彼は、フルシチョフがスターリンを批判したことを、かんかんに怒っていた。彼は、二年間のレニングラード防衛戦を耐え抜いた話をした。食物がまったくなくなった時のことを。「しかしそれでもわしらが戦ったのは、スターリンがいたからだ」と言った。こういう場合、民衆と指導者は一体化しているのである。
江青に対する憎悪
毛沢東に対する敬愛の気持は、良ぐわかる気がした。しかし同時に知ったのは毛沢東夫人江青に対する憎悪の深さである。理解できなかったのはどうしてこの二つが関係なく人々の心に共存しうるのかという点だった。江青に対する悪口はどこでも聞かされた。何でも悪いことは江青のせいである。そこで私は講義の際、「中国人の意気地なさ」をなじって、「江青が倒されてから江青、江青ということは誰でもできる。肝心なのはその前だ。君達は作家の老舎が好きだろう。しかし老舎は池に飛び込んで死んだという。そうなる前に君達の中で一人でも彼を弁護した人がいるのか。死んでからの名誉回復などなんになるのか」と問いかけた。しんとして声がなかった。しかしこのことは、余程こたえたらしい。くやしかったらしい。 翌日、「そのことを昨晩、家内と話し合ったけれど」と言って話しかけて来た人がいた。「お前は江青のことが解っていない」そう言うと彼は、タオルをしぽるような手つきをして、「江青は本当に憎い。こうやってひねりつぶして、煮えたぎった油の中にジュッとつっ込みたい」と家内が言ってたと伝えるためだった。
江青に対するこれほどの憎悪というのは、裏を返せば、ブロレタリア文化大革命の時代に対する憎悪であり、その指導者、やり口、もたらされた結果に対する憎悪である。これは、現在の中国における文化大革命のほぼ全面的な否定的評価にもつながっている。わからないのは、この文化大革命を指導した毛沢東に対する評価である。文化大革命への憎悪と毛沢東への敬愛の情とが、共存しうることは、何か偽善的に見えた。常識的なのは、新中国を可能にした毛沢東を評価し、後年の誤りを認めることであろう。中国の知識人層がそう考えていることは間違いない。しかしそれを言うことは、タブーになっている。そして多分このタプーは、当分消えないと思う。それは思想の間題を超えた政治の問題だからである。それが政治間題化するのは、十億の民衆の感情に直接ふれる問題だからである。
最後の授業は毛沢東批判
最後の授業では、それまで遠慮していたことであるけれど、毛沢東思想に対する私の意見をのべた。私はまず、毛沢東の著作はあらかた読んでいること、その中では、初期の薯作からは学ぶことが多いと述べたあと、「しかし晩年、彼は間違ったと思う」と述べた。文化大革命の間違いについては、それまでに随分と話して来た。問題は、彼にもその責任があるかどうかという点であって、私は、貴任があるという意味で、「毛沢東は間違っていたと思う」と述べたのである。聴衆は身じろぎ一つせずに私の言葉を聞いた。ほんのちょっとでさえうなずく人はいなかった。聴衆の間に一人置きに座っている共産党役員に、心の中を見せないためである。しかし何人もの目が、ぱっと輝やくのを見た。聴衆の一人一人とスビーカーである私の間に、誰にも気づかれない交信が成功したのである。その輝やきは、今まで疑問に感じていながら、決して口に出してはならないことを、はじめてはっきり聞いた人のカタルシスにみちていた。多分これ以上の言葉も行動も不要だったのである。この十五年間、自分達がなぜ苦労しなければならなかったか、その意味が少しでもわかればよかったに違いない。
4つの近代化 毛沢東のはダメ
つづいて私は、毛沢東が指示した四つの近代化について、感想をのぺた。四つの近代化とは、「工業の近代化」「農業の近代化」「軍備の近代化」「科学技術の近代化」だが、私なら四つの近代化として次の四つを重要と考えると言って、黒板に書き出した。まず、漢字で、「生産的近代化」(生産の近代化)と大きく書いた。私はずっと英語で講義をし、それまで黒板に漢字を書かなかったので、漢字も書けるじゃないかというような笑いがおこった。
第二として、「生活的近代化」(生活の近代化)と書いた。この時、どっとどよめきがあがった。その意味はよくわからない。多分、意表をつかれた感じと、共感とが入り混ったものだったと思う。多分スローガンに個人の生活の向上を取り上げることは考えられないことだったのだろう。しかしその必要は痛いほど感じているようだった。
第三として「社会制度的近代化」と書いて、法制度の確立、言論の自由の確立が必要だとのべた。この点は、あまり抵抗なく受け入れられたようだ。プロレタリアート文化大革命の最中に、法制がまったく無視されたこと、言論の自由がまったくなかったこと、それがどんなにひどい結果をもたらしたかを誰もが認めていたからである。現在は何でもしゃぺれるという話であったがまだまだ人々の口は固かった。政治や毛沢東など微妙な問題になると、公認路線以外の意見はまったく聞けなかった。こちらが勝手に意見を言って反応を確かめようとしても、他人が同席していれぱ相槌をうつこともなかった。まして個人の批判的意見などは期待できなかった、これは、中国人の国民性によるものなのか、あるいは、文化大革命の最中、過去のちょっとした言動をとらえてひどい吊し上げを食った記憶が生々しすぎるせいなのかはわからなかった。 第四として「思想的近代化」と書いて近代化を進めるのには、日本の例から見ても、思想の近代化が一番重要なのだと述べた。しかしこれだけの説明では足りないような気がしたので、近代化というのは、緒局人間が近代化することなんだと言って、人間的近代化と大きく書いて二重丸をつけた。それで十分だった。「神やイデオロギーから人間が自由になり、人間が個人として確立することが近代である」、という説明をすでに何回も強調してあったからだ。私は、中国が共産主義国家であることを片時も忘れた訳ではない。しかしその中で四つの近代化が強調されているのを聞くと、近代とは何なのか、その本当の意味を考えてもらう必要を猛然と痛感し、あえてこんな話をしたのである。
毛沢東語録ではダメ
この時の黒板を記録のために写真にとっておいたが、これを見ると「系統工学八股に反対する」「問題をつかんで解決を促がせ」と中国文で書いてある(反系統工学八股、孤問題促解決)いずれも毛沢東の言葉を「もじった」もので、私がシステム工学の講幾を通じて伝えたかった思想のエッセンスである。「系統工学八股に反対する」というのは、「党八股に反対する」という毛沢東の初期の論文と同趣旨のもので、むずかしい数式を並ぺて人を驚かすばかりで、一つも実際の問題が解けないシステム工学者に対する批判である。「問題をつかんで解決を促がせ」は「革命をつかみ、生産を促せ」という後期の毛沢東のやり方に真正面から反対し、正しいやり方を示したものである。この毛沢東の言葉は、生産の向上に役立たないぱかりか、逆に生産を阻害したことを多くの人は感じているようだった。そのせいか、「西村肇 語録」と書いて「抓問題促解決」と書いた時は、教室は爆笑の渦につつまれた。
このようにして、私は二週間におよぶ講義を、無事に終えたのである。やっている最中は夢中であったが、あとになって考えると、よく無事だったと思う。もちろん、聴衆の中には共産党員の責任者がいて、私の話に注文をつけるぐらいはでぎたであろうが、実際は喜んで聞いているばかりで、なんの注文もつけてこなかった。私の講義が終ると、共産党員の責任者が立って挨拶をのぺた。彼は大学の教員ではないが、化学工学科の管理運営の面での責任者をしている。彼は、私の講義に対して、賛辞や感謝の言葉をのべたあと、今回の講義からは、教授法についても大いに学ぶところがあったと述べた。こういうことは、中国ではやっていなかったけれど大いに学ぶぺきだという趣旨の挨拶であった。私はほっとした。
聴衆の拍手も熱烈だった。講義のあと専門家との討論があったため、工科大学を辞去したのは、さらに四時間もあとだったが、多くの聴衆が別れを告げるために待っていてくれた。一人一人と握手をしていよいよ車の方に歩き出すと、一人の女性が走り寄って来て「素晴らしい講義だった。是非もう.一度来て欲しい」と^言った。流暢なロシヤ語だった。中国人がこのように個人の感情を率直にあらわすことは滅多にない。私はすべてが酬われた気になった。空港には十人の聴衆が見送りに来てくれた。四人からは帰国後すぐにかなり長い感謝の手紙がとどいた。二通は英諮で二通はロシヤ語で。
Deng Xiao-ping(とうしょうへい)による中国再建
文化大革命は大衆がMao批判分子とされた人間を引きずり出し、つるし上げ、街中を引き回して暴力をふるい死にいたらしめた事件です。犠牲者の数は3千万人以上です。ここでMao批判分子とは、「大躍進」の惨状を見て知って、100%はMaoのやり方に追従しなかった人間のことで、自分で考える頭を持った人間のすべてです。当時言ったことが少しでも大衆の耳に残っていれば、批判分子として突き出されて殺されたのでした。
あと2〜3年続けば数億人の餓死者を出すはずだったこの狂乱、中国全体が死に到るこの病は、1976年、Maoの死でやっと進行が止まりました。しかし残されたのは惨たんたる中国でした。街から大学から「文化」らしいものが根こそぎ消えて10年経っていました。少しでも自分の頭で考える人達も、特別に巧妙な人を除き、抹殺されるか知的に無力化されていました。10年間、学校がなく、デモとつるし上げに明け暮れた世代は数億人の失われた世代でした。
(註)ただしこの狂乱の中でもMaoの指示で軍事技術だけは無傷で飛躍的発達をしました。1970年には中国最初の人工衛星、1972にはIBMと進みました。すべてロケット博士Qian Xusen(せんかくしん)の成果ですが、Qianが大躍進の際、Maoを支持した成果かもしれません。
問題解決の方向、共産党幹部の認識
1978年、講義の後は毎晩のように食事を共にし、懇談になりましたが、話題はつきませんでした。今後、中国はどうするかも話題になりました。こういう話題になると技術系の学者は一切口をつぐみ、例の共産党員の管理主任がもっぱら議論の相手をしてくれました。私が最初にぶつけたのは「中国は大き過ぎるから東西南北4つぐらいに分割したら」という提案です。これに対しては全員が「うまく行かない」という答でした。例の主任の説明は「中国人は同郷人しか信用しないから、中国を行政区に分割すると行政区が独立して分解してしまう」というのです。「例えば今は、Henan(湖南)でとれた綿はBeijing(北京)の工場に送って綿製品にしているが、地方に決定をまかせると, Henanは必ず自分の所に工場を作って, Beijingに綿を送らなくなり、Beijingの工場は外国からさらに安い綿を買うようになる」というのです。同郷結束の強い例として村長を先頭に村全体が集団強盗団になっていた例を教えてくれました。「だから国をまとめるには強い中央集権組織とそれを支える軍隊が必要だ」というのです。なるほどと思っているとさらに彼は続けました。「でも軍隊だってすぐ同郷強盗集団になる。それが軍閥だ。それを防ぐには軍を中から管理する組織が必要だ。それが共産党だ。それを考え出し、実際に作ったのがMao Zedongだ」というのが、学生時代から共産党員だったのに4年も下放されたという、例の管理主任の話でした。ほかの共産党員は、こうはっきりは言いませんでしたが、認識は同じ感じでした。同席した教授たちの反応を見て、これは中国知識人層の共通認識だとも感じました。
Deng Xiao-ping 改革とは
文化大革命を、Maoをしのぐ巧妙さで生き残った最高の実力者Deng Xiao-pingが、中国再生のために打てる手は、管理主任の話を聞くまでもなく限られたものでした。つまり@地域機関の自治、独立は認めず中央集権は死守する。Aそのための実質的管理組織として共産党組織を残し活用する、です。ただこの共産党組織の幹部にどんな人物をすえるかで、Deng Xiao Pingは従来の考えを否定し自分流を実行しました。従来の考えでは共産党員の序列は、出身階層と政治性で決まっていました。革命前の階層が低いほど、Maoへの忠誠心が高いほど上でした。これに対しDengの原則は「白くても黒くても、ネズミを捕るネコは、良いネコ」で実力主義です。ただし、実力主義といっても、過去に仕事をした人はいないわけですから、実績評価ではなく可能性評価です。Dengの評価原則は単純で、「頭の良さ」です。Deng はそのために、出身大学と共産党内実務経験を重視しました。中国は、Franceに似ていて、出身大学ではっきり「頭の良さ」がわかる国だし、また共産党組織は、そのような人間を評価するのに有効な手段だからです。小さい時から見られているし、多くの人が見ているし、地位の高い人との直接の付き合いもあるからです。Dengが抜擢した幹部にQinhoa大学(精華大学)出身者が圧倒的に多いのはそのせいです。
旧型管理者のしたたかさ
北京滞在中、石油化学工場に案内されたことがありました。石油化学工場は、日本では海岸地帯にあるのが常識ですが、これはトンネルをいくつか通った山中にありました。ソ連の核攻撃を恐れたMaoがここに作れと指示したそうです。案内された工場はソ連から技術供与でできた当時最先端の合成ゴム工場ですが、導入以来20年近くたっているので、改善すべき点をいくつも気付きました。案内してくれた人もそれを期待して連れて来たと思います。私も技術者として秘密保持契約にしばられていますが、自由な懇談中の中ならヒントぐらいは出すつもりで工場長に会いに行きました。ところが部屋に入った途端びっくりしました。早の真ん中に私が座るべき固い椅子が一脚置いてあり、工場長は自分の机にほほ杖をついたまま「座れ」という合図をするだけ。まるで取り調べ室の雰囲気です。
そして私に向かって挨拶もせずに言ったのは、「システム工学について説明しなさい」という指示です。しかしこれは相手のLevelも関心も分からなくて出来ることではありませんから 「システム工学は、問題を解決する方法の学問ですから、システム工学は何かを知りたいなら、あなたが解決したい問題を一つ述べてください。そしたらお答えしましょう」と言いましたが、一切聞く耳を持たず「いいから説明しなさい」の一点張りでした。仕方がないのでシステムについて初歩的な説明をしましたが、つまらなさそうな顔をしているので、システムのモデルについて私の最近の成功例を話ましたが、相変わらず「当たり前な話だ」という顔です。これは相当わかっていると思って、その頃取り組んでいた最新の研究を、紹介しようとしました。「不確実な状況での最適設計」です。大変な計算量を必要とするこの仕事に、うまい近似解法を「見つけたい」と努力していた最中でしたが、話を少しごまかして「見つけた」と説明した時です。初めて彼の口が開きました。「そこをもう一度説明しなさい」です。「しまった。気付かれた」と思った途端、私は訳わからない「言いわけ」に転じました。すると「さっきの説明となぜ違うのか」と追求です。それからは「もう帰ってよろしい」と言われるまでの15分間、私の思っても見なかった負けでした。
案内した人から聞いたところでは、この工場長は内戦時代、軍の政治指導をしていた古参共産党員で、技術のことは分かるはずはないそうです。でも政治指導力は高く、技術者からは恐れられているとのことでした。私が経験したのもその政治指導力だったのでしょう。その要点は「人の心を読む」能力にあると思います。私の話はまったく分からなくても、わたしが「見つけた」とごまかした時、声の調子が少し違っていたと思います。その僅かな違いから自信のなさを見抜き、ヒョウの様に襲いかかったのでした。これが政治指導力でした。この政治指導能力があれば、自分には戦闘や仕事の能力がなくても、有能な人間にすべてやらせ、成功した後で、ささいなことを手がかりにして、その人を追い落とし、成果を自分のものにすることが出来る筈です。これがMaoのやり方です。それをそっくり見習ったのが、旧型管理者のやり口でした。
新型管理者の頭のきれ
Deng Xiao-PingはMao流の政治指導こそが、中国をダメにした原因と考えたようです。そこで共産党による中央集権機構はのこすが、その幹部は「頭のいい仕事の出来る人間」でなければならないと決めたようです。この入れ替えは一気には出来ませんから、国家機関などの最上層から始まりましたが、私が中国の経済発展を予測した1993年頃には、すでに小さな事業所Levelにも及んでいました。私が自信を持って予測できたのはこのことを知っていたからです。そのうち最も記憶に残っているEpisodeを一つ紹介します。
私の友人の技術者が、電子機器メーカーの中国の総代理店へ、「現地組立て」のための指導に行った時の経験です。200-300点の部品を丁寧に配列して, まず自分が組み立てて見せ、次に作業員に二回組み立てさせ, 時間はかかりましたが成功しました。そばで作業を監督していた主任に「引渡し終了」の挨拶をすると、「自分も組み立ててみる」というのです。これには驚ろいたそうです。それまで中国の主任は、日本までも必ずついて来るが、自分では絶対に手を出さないことを経験していたからです。それならと、バラバラになって積み上げてある部品を、彼のために再配列しようとすると「そのままでよい」といって組み立てをはじめ、難なく成功したそうです。そのあと、性能検査のための専用電卓を取り出して、作動させようとしましたが、どうした訳か正常動作しません。すると主任が「ちょっと貸してみて」といってしばらくいじっていましたが「もう大丈夫」といって返して来たそうです。その電卓で完全に性能検査ができました。日本のメーカーで多くの技術者を知っている友人も、Levelの違う人間を見た感じだったそうです。