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30年前に行った ソ連崩壊の予測
どんな予測だったか
1980年筆者が教授に昇任した時、筆者は「20年後のソ連」と題する教授就任講演を行いました。ソ連も国際情勢も筆者の専門ではありませんが、この問題については独特な体験から常識が大きく間違っていると確信しておりましたので、大事な機会に多くに人の目を覚ましたいと思いあえて取り上げた次第です。私の結論は単純でした。ソ連という社会は極端に非効率であり、この状態の社会がこれから20年以上続けられるはずがない。10年か20年の間に崩壊するだろうというものでした。実際には予測から11年後の1991年にソ連は崩壊しました。
予測の根拠は
根拠は頭の中の知識
私はこの予測を統計Dataや理論考察やNews分析から行ったのではありません。それは専門家がやることですが、その様な人の間では、あの時点でソ連の崩壊を予測した人は一人もいませんでした。私のこの予測はまったく違った根拠からです。それは、私が20年近く考えつづけて、ほとんど確信になっていた考えの表明でした。考えといっても、短文にして発表したような考えではなく、頭の中の考えです。それは、すでに述べたように、頭の中の知識の構造と離れがたく結びついていますから、私は、「私の頭の中の知識からこの予測をおこなった」といってもよいでしょう。
根拠はEpisode
頭の中の知識構造の素材はEpisode ですが、この問題についての決定的Episode の数々を、私はソ連、東欧を一人で旅した特異な体験からえました。1966年のことで、この地を個人旅行する日本人がまったくいなかった時代です。当時ソ連を訪れる人は、みんな政府か労組からの招待でした。私がチェコの学会に出席するのに、西欧経由を強制される公用旅券にせず、あえて私用旅券にしたのは、ソ連、東欧を個人旅行し、当時、理想化されていた社会主義を実感するためでした。ロシヤ語会話にも自信があったので、実地練習ぐらいの軽い気持でしたが、それは間違いでした。観光船を断って泳ぎだして滝つぼに落ちたようなものでした。意地悪い社会の中で、一切の便宜も援助も得られない苦しみの中で、大衆が味あう苦しみと苛立ちを実感できました。大衆の意地悪さも身にしみました。
官僚になった大衆 疲れ果てる社会
大衆の中でその一人として生活してまず驚いたのは、店、ホテル、レストランなど接客業務にまったく笑顔(Smile)がないことです。「申し訳ない」という言い訳もなく「どうぞ」という親切も皆無です。あるのは官僚としての威厳の誇示と自分の特権の乱用です。切符を買うのに1時間半並んであと3人で自分の番になった時、いきなり窓口を閉められたことなど度々です。庶民の恨めしそうな顔を正面に見ながら、理由も言わず窓を閉められるのも、小さな特権なのでしょう。忘れられないのはトレチャコフ美術館の門番の婆さんです。4時に入場終了のところ、10分前に列の先頭に来たのでほっとしたところ、大きな鍵を持った農婦風の婆さんが来て、いきなり鉄格子の門を閉めました。筆者が「日本から来て明日は帰る日だ。まだ4時前だ。入れてくれ」と叫び、皆が「日本から来た人だ」、「時間前だ」と叫びましたが、それをにらみつけて「ニエット」と答え、悠々と館内に引き上げた光景は忘れられません。
大衆はみんなこの調子で、特権を振り回す官僚から意地悪され、いじめられた人は今度は、その仕返しに自分の職場で大衆をいじめるという悪循環です。その結果、非常に暮らしにくく、へとへとに疲れるいやな社会ができていました。いやというほどそれを体験た私の確信は、単純なことでした。「大衆が全部官僚である国より、全部商人である国のほうがよい。偽善かもしれないがSmileと親切があるから」です。
ソ連と東欧 若者の態度の違い
ソ連崩壊を強く予感させたもう一つ素材、体験があります。それは若者の態度です。特に他の東欧諸国とくらべた時の違いです。私はどの街でも、出会った若者と真面目に話をするように心掛けましたが、こうして知り合い、話しをした若者達の知的関心が、ソ連の場合はチェコ、ポーランドと比較して驚くほど低かったことです。街を仲間と歩き、時間を過ごしている若者ですからTop Eliteではありません。しかし外国人に話しかけて来るのですからそれなりのLevelです。このLevelの若者大衆の気構えが国によってまったく違っており、その違いは、その国の将来に決定的影響を与えるだろうと気付いたのが、ソ連崩壊を確信するようになった第2の理由です。
プラハの若者
1996年、チェコは「人間の顔をした社会主義」の真最中で街には物と自由があふれ、ソ連と比べるとまるで天国でした。当然旅行者があふれ、Prahaではどう探しても泊めてくれるHotelが見つかりませんでした。この時、駅で知り合いHotel探しを付き合ってくれた若者が、自分の家に泊まれというのです。ついて行くと居間には燭台つきのPianoをはじめAntique家具がそろった立派なマンションでした。母親と二人暮らしだが今日は母親は別荘に行っていて留守とのことでした。二人でくつろいでBeerを飲んでいると、その母親からの電話です。別荘で待っているがなぜまだ来ないのか、というのです。彼は私がいることを隠して「すぐ行く」と答えました。共産圏では外国人を自宅に泊めることは許されてなかったからです。それを聞いて私は彼と一緒に出てHotelを探すというと、彼は「一人にして悪いがここに泊まってくれ」といって玄関の鍵を預けながら行った言葉を忘れません。「どの部屋でも自由につかってくれ。そして明日朝出発する時は確実に玄関を閉めて鍵を一階の郵便ポストの中に落としておいてくれ」です。
ワルシャワの若者
同じ年、隣のPolandは物が不足してどの商店のShow Windowが空っぽ、電気が不足して夜のWarsawの街は真っ暗でCzech (チェコ)とは正反対の「暗い社会主義」の国でした。この暗いWarsawの街でいきなり4,5人の若者に呼び止められました。「日本人だろう。話しよう」というので、HotelのBarに連れて行かれました。みんな完全に流暢なロシア語をしゃべるので、大学の講義もロシア語かと聞いたのがいけませんでした。「なぜ文化程度の高い国が野蛮国の言葉を使う必要があるのか」と事実上の占領をしているロシアへの軽蔑と敵意がむき出しでした。話題を変えチェコの様子を紹介し、「真似る気はないのか」と聞いたところ「チェコ人はきらいだ。ナチが来たら手を上げる。ロシアが来たら手を上げる。だからプラハは無傷で残った。今度のプラハの春の改革だってロシアから脅かされればすぐ止めるだろう。我々は違う。我々はロシアから脅かされてもそれで引っ込むようなことは絶対ない」でした。その後の歴史はまったくその通りに進みました。その2年後1968年8月、ソ連軍がチェコに進入するとプラハの春は終わりました。Polandではその15年後(1980)、造船所に始まった政治Strikeが全国に広がりだし、ソ連軍の進入の危機が迫りました。この時、Jaruzelski将軍はStrikeの指導者Waresaを逮捕することでソ連軍に進入の口実を与えませんでした。
この晩は別室に呼ばれ、試験問題の解答を全部教えてもらったような経験でした。別れ際、彼等には高すぎるBarの勘定は当然私が払おうとすると、それはならぬと言い、財布を合わせポケットをひっくり返し支払っていた姿は忘れられません。まさに私に下された天使達でした。
モスクワの若者
モスクワで出会ったのは全く異質の体験でした。街で声をかけられた4,5人の男女学生に近づくと飲みに行こうといってタクシーを呼び、モスクワでは珍しいJazz Dance Hallに連れて行かれました。そこで自分達が飲み食いして踊る費用を私に出させるのが彼等の目的だったのです。しばらくの間私は一人ぼっちです。踊り帰って来たさえない女の子のどこで働いているか聞くと、建築大学の学生だというのです。驚いてモスクワの建築について少し質問をしましたが、照れ隠しに笑うだけで何も知りません。話題を変えてチェコ、ポーランドを話題にしましたが、全く何も通じませんでした。大学生になる自覚のない人が大学生になっている国という印象でした。複雑な気持ちでいると仲間の一人が切り出したのは私の腕時計をロシアのイコンと交換しないかというしつこい提案です。私に全部おごらせた上、商売もしようというロシアの若者でした。
その頃 ソ連の中で何が起こっていたのか
その頃のソ連は、Stalin、Khrushchev につづいて、Brezhnev が最高権力を握っていた時代です。ソ連では、1953年にStalin が死ぬと、「真夜中にKGBが来てDoorを叩かれるとそれでお終い」という恐怖の時代は終わりました。1956年、Khurshchev が最高権力者になって最初にやったことは、極悪犯罪者としてStalinを弾劾することでした。自分中心の猜疑心や嫉妬心から、無実のひとを犯罪者に仕立て上げ、数十万の人を殺したことをです。それは単なる批判ではなく激しい弾劾でした。これにつづけてソ連社会に「雪解け」が起こりました。人々の間に希望と活気が湧き上がりました。この時代は、人類最初の人工衛星にも成功し、ソ連がもっとも輝いた時代でした。しかしそれは、知識人の感想であって、大衆の感想は違ってました。大衆は自分たちのStalin が、神棚から引き降ろされ、踏みつけられたことを怒ってました。Khrushchev は大衆には支持されてませんでした。そのためKhurshchevは、そこをうまく利用したBrezhnev に最高権力者の座を奪われてしまいます。1964年のことです。
Brezhnevは自分の地位保全しか考えない典型的官僚で、Stalinの恐怖政治を復活する気はありませんでしたが、Khurshchev のように、能力ある人々に希望と活気をあたえるのは危険と考え、これを徹底して抑え込みました。そのためBrezhnev の時代は、恐怖もないが夢も希望もない、生きてる手ごたえのない時代でした。私が会ったのは、この時代のロシアの若者です。Brezhnevは、この1年後の1968年、ソ連軍を進入させてチェコ全土を制圧し、人間の顔をした社会主義「プラハの春」を踏み潰してしまいました。東欧は暗い社会に逆戻りし、世界中でソ連への嫌悪は決定的となりました。一方国内では、恐怖のなくなったロシア大衆は働かなくなり、農業を中心に生産が激減し、モノ不足が起こりました。大衆の官僚化と非能率がそれに拍車をかけました。空っぽの店と、数時間並ぶ行列ばかりの毎日で、大衆の不満とイライラは、ほって置けば、危険な状態でした。
そこでBrezhnev 政権が、真面目に考えて実行した対策は、「votka (ウオッカ) で大衆を酔わせる」ことでした。アメリカから大量の穀物を輸入せざるをえない食料事情の中で、優先的に生産されたのはvotkaです。Butter も肉もない食料品店に、只同然の極安のvotka だけはありました。人々は職場でも昼間から飲むようになりました。上も下もです。大衆を指導すべき共産党の地区委員会に泥酔状態で出席し、注意されると、党員証を投げ捨てて退席したという話しを直接ききました。1980年頃のことです。私はこんな状態で国や組織があと10年以上もやっていける可能性は無いと確信し、冒頭のような予測をおこなったのです。
See also
Prague Spring Wikipedia
Nikita Khrushchev Wikipedia
Leonid Brezhnev Wikipedia